5月
30
気がつけば

あと数日で5月も終わり。
このところ何日も真夏日が続いたようで、夏はすぐそこな感じがしてる。
あ、でも、まだ梅雨があるか。

ところで。
(最近、気持ちの中で一つ年齢を重ねたのでそれで完結しているのだけれど…)先日は世間の考え方でいう特別な記念日だった。

FBではその日を非公開にしているし、最近特に何もメッセージ残していないから、FB上ではいつものように全く何もないままだった。それが望むところなので思惑通りになって良かった、と思っている。どうも私はFBに「今日は○○さんの〜です」と皆に言いふらしてもらうのが苦手みたい。

ほんの少しだけ、ささやかに、非日常だったけど、すぐに現実の世界です。全くそれで良い。

「え、そうだったのか。ならば俺もこれからでも、もっとがんばらなきゃ。」と思うこともあり、体も気持ちもいたって順調。
(といいつつ風邪気味ではあります。)

5月
18
再発見

この数ヶ月で手に入れた吉本隆明の本。
すべて例の古本屋チェーン巡りで手に入れた。

ほんとうの考え・うその考え  賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって  春秋社
フランシス子へ   講談社
吉本隆明「食」を語る  聞き手 宇田川悟  朝日新聞社
共同幻想論  角川ソフィア文庫
真贋  講談社文庫
日本近代文学の名作  新潮文庫
夜と女と毛沢東  光文社文庫
僕ならこう考える 心を癒す5つのヒント  青春文庫
13歳は二度あるか 「現代を生きる自分」を考える  大和書房
カール・マルクス  光文社文庫
詩の力  新潮文庫
悪人正機  聞き手 糸井重里  新潮文庫
音楽機械論 吉本隆明+坂本龍一  ちくま学芸文庫
「すべてを引き受ける」という思想 吉本隆明 茂木健一郎  光文社
ひきこもれ  ひとりの時間をもつということ  だいわ文庫
思想とは何か 吉本隆明 笠原芳光  春秋社
吉本隆明の声と言葉。  HOBONICHI BOOKS
(吉本隆明が語る戦後55年 1 60年安保闘争と『試行』創刊前後 三交社)

それ以外にも 吉本隆明の183講演 – ほぼ日刊イトイ新聞で手に入る講演集が全てipodに収まっている。

だいぶ集めたな。
まだ読んでいないのもあるけれど、大まかな感じは掴めてきた。
晩年のは、だいたい対談を書き起こして本にしてる。
それぞれの本で様々なテーマが繰り出されているが、そのどれもが結局はいくつかの大切なテーマに収斂していく。
しかし、その大切なテーマ達を初めて世に出していった頃の、一番読みたい本がまだ見つからない。

密林でポチれば次の日にでもすぐ来るのだろうが、ここは別の理由もあって古本屋巡りにこだわっている。古本屋巡りは実は楽しいのだ。様々な物や事を発見できるからね。

きっと「表現」ということについて(いや、もしかしたら吉本のすべて)の根っこがその本にあるのだろう。
手に入れた本を読んでいくと、必ずそこに行き着かなくてはならない、と強く思うのだ。
凄まじいパワーを感じる講演記録 芸術言語論――沈黙から芸術まで を聞くとその思いはさらに強まる。
「言語にとって美とは何か」だ。 (「心的現象論序説」も同じかもしれない。)

吉本隆明に出会うことになった最初は「努力する人間になってはいけない(芦田宏直 ロゼッタスト−ン)」という本なのだが、この期に及んでようやくその後段にある〈追悼・吉本隆明〉をきちんと読めた気がする。

「自作品のオリジナリティっていったい何なんだ?」とか、「音聞くとお前の作品て判るのはなぜ?」とか、「個性とは意図するべき物なのか?」とか、等々夜を徹して語り明かす事が常だった学生の頃から未だに決着がついていない「表現」や「表現行為」の意味が、もしかしたら少し明るみに出るかもしれない、と大いに期待する。

そんなこともあってか、最近、純粋に自分がやりたい(やりたかった)音楽を(再)発見してるような感覚がある。
世間の評価とか経済的価値とかからは全く無縁な感覚。不思議だ。

最後に。
本日読んだ「ほんとうの考え・うその考え」の一部分から引用

 ヴェイユが工場体験で得たことで、何が一番重要だったかというと、
 〜中略〜
 もう一つは、手紙の中で「人間は疲れっぱなしで、追いつめられて、ぎゅうぎゅうに抑圧されると、かならず反抗心をもつものだと思ってきたが、そうじゃないんだということがはじめてわかった。つまりかんがえもしなかった一種の奴隷の従順さというものがじぶんのなかに芽生えてくるのがわかった」と言っているところです。これはとても重要な体験だとおもいます。これも手紙で「レーニンとかトロツキーとかは偉そうにしているが、あの人たちは工場の中に入ってみたこともじぶんで働いたこともないのだ。ああいう人たちが労働者の解放といっても、不吉なばか話にすぎない」と書いています。
 ようするに人間の心のメカニズムの複雑さを実感したことになります。人間はぎゅうぎゅうに追いつめられたら、かならず反発すると思っていたがそうじゃなかった。反発するにきまっていると思っているやつはぎゅうぎゅうに追いつめられた体験がない人たちで、実際はぎゅうぎゅうに追いつめられても反抗心をもつどころか、素直にそれをこなしている。そしてこの人たちがなぜおとなしくしているのか、なぜ反抗しないのか、その理由がすこしわかったという意味のことを言っています。これはとても重要な体験だったと思います。

5月
17
この春より

吹奏楽で音楽を勉強する会、始めました。
楽器持って実際に音出しながらやってます。本日はその3回目。
まだ参加人数は少ないのですが、ディスカッションも活発で内容の濃いものになり、とても充実しています。

以下、その内容紹介などを試みます。

音楽をもっと広くもっと深く知ろう!
【音楽の仕組み・音を出す技術・表現する心】  音を出しながら吹奏楽を研究する会

1. 音楽の音とその由来
   【音階の仕組み】
   ◇12個の音 ◇音階の不思議

2. 音と音のつながり
   【オトがつながると線となってメロディーになる。】
   ◇一つ一つの音がつながると意味を持つ

3. オトが同時に鳴るとハモる
   【和音の力はすごい】
   ◇機能和声 トニックとドミナント

4. ハモると動き出す   ←次回はここ
   【和音はどんどん進化する】
   ◇サブドミナント&転調 ◇テンションって何?

5. 音符の付属品
   【音符についている小さな印】
   ◇アーティキュレーションとかディナーミクとか

6. 楽譜の付属品
   【楽譜についているいろいろな印 楽譜に書かれていない様々な指示】
   ◇全体を支配する呪文 ◇連続的に変化させる指示 ◇記号化されていない隠れた指示がある!

7. 音楽の多様性 1
   【まさに十人十色 音楽の色も実に様々】
   ◇音楽のスタイルについて
    例えば…。ライトモチーフ 印象派 セリー ミニマル 微分音 不定量記譜 などなど

8. 音楽の多様性 2
   【タイミングの妙 合うことの気持ちよさ ズレルことのスリル】
   ◇生き生きとしたリズム ◇複雑な拍子 ◇ノリって何?

9〜 ひたすらさらおう!
   ハッピョウカイに向けて練習あるのみ
   テーマを持って選曲。研究するのだよ。◇Tuttiの曲だけじゃなく 個人やアンサンブルの曲も

LAST.【ハッピョウカイ】
     本番!

また、ただ勉強するだけではなく、その成果を元にいろいろなことを目論んでいます。
おもしろいことがたくさん始まりそうです。
わくわくしています。

今からでも参加可能です。
興味のある方、こちらからお問い合わせください。

5月
15
本音?

まずはこちらをご覧くださいませ。

「ある会社で配布された、「新入社員へうちの会社が求めていること」という資料が、すごい本音だった。」という記事。
FBシェアにて、それに対するコメントともに流れてきた。

なるほど。私にはその内容がよくわかると思った。それを新入社員へ伝えたい気持ちもよくわかる。

一方、よくわからないのは「すごい本音だった。」という紹介記事の見出し。
見出しはWEB上で目立つための方便、ということを差し引いてもやはり多少の違和感がある。
「本音だった。」には「本音なんだから表に出しちゃ駄目でしょ」なニュアンスが見え隠れしてるように思うから。
「あーあ、言っちゃいけないこと言っちゃったよ。」な。

そうなのか。ここに書かれていることは「本音」であって、ふつうは表に出てこないことなのか。(表に出したら駄目なことなのか。)
新入社員にこうやって望んだり期待することは当たり前じゃん、と思う私は、もう既にこの段階で感覚がずれているのかしら。

次に「へぇ」と思ったのは、この記事に対して「こんなことしない」とか「こんなことできない」とかな人が以外に多いかも、と感じたこと。
「この要求は難しいんじゃない?」とか「できないでしょ」とか「出来たら良いけど」とか、他人事のような雰囲気を感じる。

さも当然のように「(自分は)どれもしない」などと実際に発信してる場合も見受けられたが、それは別の話。この記事の内容の先にあるものとか、書くにあたっての(…書かなければならなかった)想いとか、この文章中の文字として書かれていない部分にまで思い至ることが難しい場合は、「それはしない」で片付いてしまうのだろうな。

もちろん、特に若い世代の人達が「それはしない」で片付いてしまいがちなのは今も昔もあまり変わらないように思う。
そんな鬱陶しいこと聞く耳持たんぜ、は有る意味若者の特権だし。
だからこそ、そこに社会がどう働きかけていくか、という事が問われているのではないか。

「すごい本音だった。」という言葉になって現れたその記事が、話題になって何万の「いいね」をもらうということ(「いいね」と思う人がそれほど多いということ)自体、「本当はそうあってほしいけれど、本音言っちゃうとなかなか難しいからねぇ…」と感じて、しかし何もしないで「近頃の若いやつらときたら…」と文句だけ言っている人が実は多いのではないか、と物語っているように感じた。

一方では、この会社は、新入社員をまじめに育てようとしていることを強く感じる。入社した人材を本当に大切にしているからこそ、この働きかけをしてるんだと思う。育てるって莫大なエネルギーが必要なのだもの。その覚悟、意思の表明でしょう。新入社員がそれにどう対応するか、ではなく。

5月
12
Vivaldi

作曲家のことではない。

最近使い始めたWEBブラウザのこと。
軽い。表示が早い。時代遅れのXPマシンでも、FBページが止まらずにどんどんスクロールできる。
へぇ。実力有りそうだ。

今までOperaをメイン使うことが多かった(たまにChromeも…Firefoxはほとんど使わなかった…IEは一切使わず)が、今まで、スクロール途中でイライラしてあきらめていたから、きっと記事は全然読めずにたくさん見落としていたのだろうな。
しかも何気なくバージョンアップしたらいきなり知らない世界になっちゃったので、バージョンダウンをして元にもどさなければならなくなってめんどくさかった。
それを機会にVivaldiを知ったのだが、案外調子良さそうだからしばらく使ってみることにする。

5月
09
空中戦

ツバメが騒ぐ。
いつも機嫌良く賑やかにさえずっているツバメが、金切り声をあげて高速で旋回している。何羽も。
何事だろうとしばらく様子をうかがっていると、原因が見えてきた。
カラスに巣を狙われているようだ。
カラスは周りで騒いでいるツバメを尻目に動じず巣の近くまで飛び込んでいくが、結局獲物は得られずに飛び去っていくようなことを、何度も何度も繰り返している。
そのたびにツバメたちは大騒動だ。

別の日、別のところ。
車から降りたとたん、ケリがけたたましく叫んでいる。こいつは元々うるさいやつだから、「あ、ケリだ」程度でやり過ごそうとしたのだが、いきなり私にめがけて急降下してきた。と思った。
なんか気に触ることしちゃったのかな、と思って周りを見渡したがよくわからない。
何度目かの急降下を目撃しながら、対象が私ではないことに気がついた。
対象はカラスだ。
ケリは止まっているカラスに向かって執拗に急降下を繰り返しているが、接触するまでには近づけず1m位のところで離脱する。
カラスは動じない。反撃すらしない。

ついつい「ケリ、がんばれ!」
と思ったが、次の瞬間「いや待てよ」と思い直した。

ツバメやケリは、卵や雛をカラスに捕られまいとして防御してる。
人は勝手なもので、いじめられている様に見えるツバメやケリの味方をしてしまう。
場合によっては彼らに代わってカラスを追い払うこともやってしまいそうだ。
人間のゴミを漁って散らかすイメージがあって、憎っくきカラス、と短絡するんだろうな。

でも「それって間違っていないか?」となぜか突然思い至ったのだ。
カラスだって子育て中かもしれないし、自分が腹ぺこかもしれない。獲物を得られなければきっと生きていけないだろう。カラスにとっては当然の行動に違いない。
はたして、カラスは悪いことしてるのか? 悪い事してると人が勝手に判断して良いのか?
 

生きている子犬を釣り針につけて海に投げ入れ、鮫を釣っている写真を見て愕然となったことがある。
見た瞬間、頭にカッと血が上るのが判ったが、その時もやはり次の瞬間、別のことに思い至ったのだ。
「おまえは釣りをするとき、生きたゴカイやらエビやら使うだろう?鰺の生き餌だってふつうに使う。それは良いのか?許されるのか?」
しばらくの間とても複雑な気持ちになり、ようやく(無理矢理)自分の中で落ち着かせた思いは「自分が生きるためにほかの命を頂かなければいけないのだから、だからこそ命を粗末にしてはいけない。」という、ごく当たり前の事だった。
生き延びるための殺生と、人の快楽のために命を粗末にすることの違いはきちんとわきまえないと駄目だぞ。人間は思い上がっちゃいけないな、と。ほかの生き物に助けてもらっているのだ、ということを決して忘れちゃいけないな、と。

ナウシカ(コミック版)に、森の人が虫の卵を食べるシーンで、それを見たナウシカが「そんなことして虫は怒らないのか?」と聞き、「奪うのではないんだ。お願いして少しだけ分けてもらうんだ。」と返す場面がある。
 

ツバメとケリとカラスを見ながらそんなことをつらつらと考えた。
みんな生きることに一生懸命なんだよ。
でも奴らは決して必要以上のことはしないんだよ、きっと。
ツバメもケリもカラスも、みんながんばれ。

5月
04
庭木

庭にある大きな木は、柿と椿と金木犀の3本。
どれも野放図で、あまり格好が良くない。

金木犀は数年前に剪定しかけたままなので特に変な格好。椿にいたっては全く手入れしていなくて、枝は絡み、徒長し、今まで田んぼだったところの新しい隣家へ葉だの花だのが落ちて申し訳ないことになっているし、風が吹くと家の壁面にこすれて音を立てる。

柿は冬に葉が落ちるので、枝だけになった木を見ながらよく判らないなりにどこを剪定したらよいか考えることはできた。
ネットで調べてみてもいまいちよくわからないので、ベランダからのぞきながら、下から見上げながら、「あの枝は切ってもよいだろう」「勢いよく真上に伸びてしまったやつのどこを切ればよいのか?」「案外うまくいってそうな細かい枝はどうする?」とかあれこれ考えていた。

しかし、4月末の長雨とその後の急激な気温上昇で、ぼやぼやしているうちにあれよあれよと新芽を吹き、葉が育ち新梢がどんどん伸びる。気がついたら冬に間に剪定しようと確認していた枝は全く見えなくなってしまった。

葉が育つと枝は見えなくなる。いや、無くなるわけではないから正確には「見えにくく」なる。
だからといって、葉を取り払うわけにはいかないから、枝を見るには繁った葉を見通さなければならない。
柿のことを熟知しているのなら全体を外から見ただけで幹も判ろうが、無知な私には一つ一つ葉の裏がわから確認しなければ枝は見えてこない。
今の私では剪定作業は難しそうで、当面は様子を見ることにした。たくさん花がつきすぎて実が増え過ぎ、小さくなるだろうと思うが致し方ない。
 

〈葉〉は指示表出。〈幹〉は自己表出。
決して葉が柿の木のすべてではない。幹がなければ葉は出ない。さらに根がなければ立ちもしない。しかし根は地中で見えないし幹は葉に隠れて見えづらい。見えるのは葉(もしくは花や実)。

目に見える葉や花や実だけでなく、葉に隠れた枝(や根)を正確に見切ることが大切なのだな。
「言葉のいちばんの幹は沈黙です。」とはそういうことなんだ、と思う。