6月
30
かんじん

定石を多く身につけることと、その定石を破る道を見つけること。
自分の周りに知識の壁を作ることと、その壁を打ち破って外の世界に出ること。
Inputすることと、Outputすること。

それぞれ対になっている事柄は、単純に対になっているわけではない。
両端の間に、対となり得るための大切な部分が隠れている。
その大切な部分は見えないことが多い。
見ようとしないこともさらに多い。

心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ

  星の王子さま  サン=テグジュペリ

久しぶりに再会した一文。WEBさまよってたらいきなり飛び込んできた。

肝心なことは目に見えない。
 だから、(考えて)見えるようにする。
 だから、(心で)見る。

肝心なことは言葉にならない。
 だから、(考えて)言葉を紡ぐ。
 だから、(心で)思いやる。

そしたらきっと両端がつながる。

6月
29
集まり

かつて私が勤務していたスクールバンド指導チームメンバーの集まりがあった。
(それは不定期で年に数度開催される。)

あれから年月を重ね、それぞれみなさん自分の道の歩みを重ねている。

世間で言ういわゆる「勝ち組」の道ではないかもしれない。
道は定規で引いたような直線ではない。
平坦ではないし舗装もされていない。
そもそも道無き道かもしれない。
(失礼な言い方だな、ゴメン。)

しかし、皆、確実に自分の道を歩いている。
なんだか、良いなぁ、としみじみ思う。

そこで出会ったかつての生徒達も同じように自分の道を歩いているのだろう。
時折、風の便りでそれぞれの道を進んでいる事を聞き及ぶことがある。
順調そうな、まだまだ途上のような、苦労して満身創痍のような、打ちひしがれているような、さまざまな様子が耳や目に届くたびに、または音信が全く途切れてしまった人を何かのはずみで思い出したときに、「いや、奴らはきっと大丈夫。必ず自分で歩いていくだろう。」と思う自分がいて、それも、なんだか良いなぁ、と(勝手ながら)しみじみ思う。

たわいもない話、音楽の深い話、子育ての話、教え伝える難しさの話、ちびっ子達の自己主張、などなどがそこここで繰り広げられ、止めどなく続く会話が楽しくうれしい。
時折挟まれるかつての私の悪行の話は耳が痛いが、それもまた楽しい。

会話の背景にあるだろうはずの諸々も感じつつで時間が経つのはとても早かったが、密かに自分の土台を再確認をしていた。
何かある度に苦しくなってふらふらと逃避したくなるが、諦めては駄目だ、と思いとどまる力は増えたように思う。
みんな、ありがとう。

音楽をしたい。

音楽をする。

6月
28
貯水池

我が家の道路を挟んだ南に貯水池がある。
数年前、区画整理が始まってまずはじめに三面護岸の小さな川が地下に埋められ、その遊水池として出来た池。大雨が降るとかなり水位が上がるが普段はさほど深くないと思う。

その池に、今年になってから食用蛙が住み着いている。
例の、牛のような鳴き声が時々聞こえていたが、最近それが複数になったようだ。
以前、田んぼだったその辺りでは食用蛙はまったくいなかったと思う。

また、数日前から別の鳴き声が聞こえてくる。
蛙ではなく鳥。カイツブリの鳴き声だ。
姿はまだ見ていないが風通し良く開けた窓から特徴あるカイツブリの鳴き声が盛んに聞こえてくるようになった。
水のあるところにいる鳥だから、きっとその新しい貯水池をすみかにするために、どこからか飛来したのだと思う。
もしかして子育て中なのだろうか。
食性は主に動物食で、魚類、昆虫、甲殻類、貝類などを食べる。 by Wikipedia
ならば、餌となる者たちも増えてきているのだろう。
(この池、ビオトープになり得るか?)
 

そういえば、今年はヒバリのさえずりがごく近くで聞こえる。

田んぼが大規模につぶされ、区画整理され、道路が新しく整備され、そのうち大きな建物が建つ。
しかし、その新しい環境に、新しい生物がちゃんと生きていることが、新鮮な驚きだ。

6月
20
円のリズム

こんなのがフェイスブック絡みで流れてきた。

John Varneyさんが紹介する「ホイール・メソッド」

なるほど。視覚的におもしろいし確かにわかりやすい。
何度か見ているうちに、こんなインターフェースのリズムマシンアプリあるとおもしろいと思ったのでした。

角度と大きさでグルーブ感を数値化できるかなぁ。
7連符とか数字がめんどくさいか。分数だったらなんとかなるのしら。

などと考えていたら、既にあるんだ。
iPhone、iPadのアプリでFigure 日本語版。最近無料化した模様。リズムだけでなくベースもリードも項目があるから曲が作れるんだろう。
ダウンロードして試してみようと思ったけど、ipod4ではOSのバージョンが低くて駄目。

どんな感じだろう。私が思い描いたことは実現されているんだろうか。

6月
17
同じ穴の狢

とある映画をティーンな皆と見ていた。
そこそこの暴力描写や性描写もあるが、その映画を理解するためにはやはりある程度必要だと思うので、特に解説しないでいた。

ある時、そのことにごく一部が異常に反応した。それらのシーンになるとあからさまにいやな顔をし、目をふさいだり耳を覆ったりしている。
この人達にはまだ刺激が強すぎたのかなぁ、と少々反省しつつも、中断することなく観続けた。

終了後、ものすごい勢いで私に攻め寄ってきた。
「あんなのを見せるのは非常識だ!」と正義感の塊のようだった。

「そうか、不快にさせて申し訳なかった。他の人はふつうに見てるし、ストーリーの展開上カットするわけにもかなかったのでね。ところで、もし良かったらいやな理由を聞かせてくれる?」
とお詫びしながらも少し訪ねてみた。
「あんなの見るとむかっ腹が立つ!あんな暴力をするやつ見たら本気で殺したくなる!」
声を荒げ大きな身振りで一気にまくし立てられたのだが、私は「ん?」と返す言葉に少し詰まった。
まじめに正義を突き通そうとしているが、実は自己矛盾を起こしていてしかも自分では気がついていない、と感じたから。

「不愉快だったのは謝る。けれど本気で殺したくなっちゃったら駄目でしょ。あなたがむかっ腹を立てた奴らとあなた自身が同じになってしまうよ。」
と言ったら、なんだか複雑そうな顔して立ち去っていった。

昔々のこと。
批判をしている人が、その本人も同じ穴の狢じゃんか、しかも気がついていないから余計滑稽だ、と感じるときに思い出す話。
最近よくある。

6月
16
なぜか今日になって

このような論調の記事が目立つようになってきたなぁ。

例えばこれ、亀井静香氏の発言記事

例えばこれ、改憲派の憲法学者の記事

なぜこのタイミング?ということに興味がある。
なぜ、もっと以前に表に出てこなかったのか。
この人達の考えが突然今日になって変化したわけではあるまいに。
メディアの怠慢を指摘する声もあるが、メディアにだって表に出さなかった(出せなかった?)理由がきっとあるだろう。
それが、なぜ今?

何かバランスが崩れたか。崩そうとしているのか。
誰の?
誰が?

(少なくとも、国民、とか、世論、とかでは無さそうな気がしている。)

6月
12
生物多様性

季候が良くなって、生き物の活動が活発になる。
梅雨に入って雨も降るから、植物もどんどん生い茂る。
様々な生き物の活動が人の目に触れるようになる。
それを見るたびに、自然ってすごいよなぁ、と心から感心する。

私は。

しかしWEBをさまよっていると、実は世間の人々はそうでもないのかな、と思わされる事に出くわすことが多い。

「ゴキブリが出て引っ越ししたい。」
「ヘビがいて気持ち悪い。」
「名前の判らない大きな虫(註 シロスジカミキリと思われる)がいて怖い。」
「大きな蜂が飛んでる。」
「蚊がうっとうしくて寝られない。」

それだけなら別に何とも思わない。個人の好き嫌いの範疇だろうし。
むしろ、そういうのを嫌いな人がいて当然だと思うし、誰だって人に危害が加わるのはご容赦願いたい。

しかし、その後に
「即死刑だ!」
「早く絶滅させるべき!」
「こんな物が生きていることが耐えられない」
などと続くと、本気で言っているのかなぁ?と心配になる。

以前にも紹介したが、ヒトはイヌとハエにきけ J.Allen Boone (著), 上野 圭一 (翻訳) 講談社という本。

現在は動物はすべてを知っている (ソフトバンク文庫)と改題されている。

その中に、ガラガラヘビのくだりがある。アメリカに移入したヨーロッパ人達は開拓時代、皆ヘビが怖いから、ガラガラヘビを見たら恐怖で騒ぐ。銃で撃ち殺す。ガラガラヘビはそれを感じて余計に人間に攻撃を仕掛けてくる。ネイティブアメリカンはガラガラヘビなんか別に怖くないから出会っても騒がないし敵意もない。だからガラガラヘビも攻撃せずに素通りする。
ガラガラヘビは(ガラガラヘビに対する)人間の気持ちを全て感じていて、それによって対応を変えるのだ、という話。

元々この本は異種間コンタクトに関する記述だから、どこまで本気にして良いか微妙なところもあるが、しかし私はこの考え方が好きだ。
なんといってもネイティブアメリカンの場合は人蛇ともお互いに敬意がある。

 
一方で、虫とか蛇とかを忌み嫌って絶滅を望む気持ちと、ネット上でいろいろ聞き及ぶ差別や侮蔑などのヘイトスピーチと、両方とも根っこはかわりがないと思っていて好まない。
地球上で自分達と同じように生きているのに、自分にとって不快な事や物だからと言うだけでさげすんだり、絶滅を願ったりするのだから。

究極の自然保護は人間が滅びることだ、と言われてしまうことがあるくらい人間の存在は自然環境にとってダメージが大きい。
にもかかわらず、人以外の生き物は人に対して文句言っていないんじゃないかな。
どんなことであろうとも、あるがままに受け入れているだけだ。(因果関係など判るわけ無いからそうせざるを得ない、ということでもあろうが…。)

だから、せめてそいつらの存在くらいは認めてやらなきゃ、と思う。(もちろん、好き・嫌いは別な話。だれだって嫌いな物はある。)

生物多様性とは、生物が多様であることこそ地球が豊かなこと、という考え方だと思う。
万が一、自分にとって不快な存在はこの世から消えてなくなれ、と思っているのだとしたら、豊かさを否定していることになるんじゃないの?

6月
11
言葉と記憶

朝日新聞 2015年06月11日 名古屋朝刊 の記事。
新聞記事はこちらから。(ただし有料コンテンツのようです。全文読むにはアカウント要ります。)

また、きっとこれが一番のネタ元だろうからこちらも貼り付け。(名古屋大学の6月11日付けPress Release)
顔の特徴を言葉にすると記憶をゆがめる可能性 名古屋大

「言葉」は全能といえない、過信してはいけない、ということだと理解した。

であるならば。
言葉にしないのなら記憶をゆがめる可能性は減るのだろうか。

そういえば。
絶句 という言葉がある。
感動したときに「言葉に出来ない」とか「言葉にしてしまうともったいない」などと言うことがある。

6月
11
ヒャクジツコウ

百日紅と書いてサルスベリと読む。

サルスベリ(百日紅=ヒャクジツコウ、Lagerstroemia indica) ミソハギ科の落葉中高木。 Wikipediaより

散れば咲き 散れば咲して 百日紅 とは、江戸の女流歌人、加賀の千代女の句です。
 -中略-
 果実がたわわに成る、とは言いますが、この木は花がたわわに咲き、花の重みで、枝が弓になりになってしまいます。
 わさわさと散り、もりもりと咲く、というお祭りが、秋までの百日間続きます。長い、長いお祭りです。
 百日紅のしたたかさに、江戸の浮世絵師がだぶり、表題はこんなふうにきまりました。
 -後略-

百日紅 杉浦日向子 1983年〜1987年 『漫画サンデー』(実業之日本社)に連載。
上記はその単行本にある、杉浦日向子氏自身の前書きの一部を転載させていただいた。

百日紅は葛飾北斎とその娘お栄の物語。
杉浦日向子氏は、かつてNHKの「お江戸でござる」で江戸文化を解説していた方。本業は漫画家なんですね。

ちょうどいまアニメ映画が封切り中だ。百日紅〜Miss HOKUSAI〜 この辺りでは名演小劇場でやっている。まだ観てないが。

読んだのは、実業之日本社 マンサンコミックスから出ているワイド版単行コミック、百日紅(一)(二)(三)。(なかなか古本屋チェーンにはならんでない。ある時、たまたま見つけた。)

なんだか妙に心に残る作品。さわやかでしたたかであたたかく、そしてつよいひとたち。
こんな時代に生きていたら、それはそれで楽しかったのだろう、と少々うらやましくなる。
もう一つ。この百日紅読んで、春画の見方が変わった。良い意味で。

調べてみるとこの百日紅、名だたる漫画家はこぞって大いに影響を受けているらしい。内容なのか技法なのか私にはよくわからないが、ただものでは無いということは感じる。短いエピソードが自然に入ってきてずっと残像が消えない。