3月
09
ようやく

手に入れた。
言語にとって美とは何か 吉本隆明 角川ソフィア文庫。?と?と。結局大手通販に頼った。

例の古本屋チェーンでは、方針が変わったのか、この手の本が店頭からどんどんなくなっているように感じてる。あっても値段も上がり気味。そういえば、端末ピコピコさん達も減ったような。高値で売れるもっと別のルートを見つけ店頭には出なくなったのかな、と密かに思っているのだが、どうだろうか。

なかなか読み進めていかないが、本の冒頭「文庫版まがえき」の4行目で
文学の作品や、そのほかの言葉で表現された文章や音声による語りは、一口にいえば指示表出と自己表出で織り出された織物だ、と言っていい。
と出てきて、のっけから自分の中の、ある種の感覚が「うぉ〜」と呻いた。
 

最近になって、自分に何かを取り込むやり方が少しだけわかったような気がしている。
どうやら「理解」という感覚ではなく、もっと奥底での変化(というか変容というか…)を感じることのほうが上手くいくようなのだ。
それは反復によっていつの間にか「身についている」事もあるし、一瞬にしてそれこそ「!」と閃くような時もある。
そこにはまだ明確な言葉が無い。言葉はもっと後から付いてくる。(ついてこれない場合もあるけれど…)
いままで、その感覚はあまりも感覚的すぎるので出来るだけ見ないふり感じないふりをしていたのだが、それを改め微細な感覚の変化をそのまま信じることにしたら、案外うまくいくようなのである。

で、「うぉ〜」は一瞬にして閃いた「!」そのもの。
直後、文字を追うことをやめると今まで持っていたものとチカチカと反応しはじめる。自分でも把握できない何かが起きているのだが、それを特に理解言語化しようとせずにじっと待つ。
そんなふうにしていると、いずれ何らかの考えが浮かんでくる。
それで良いのだ、と思うことにしたのだ。

子供の頃、本を読んでその物語の世界の中にどっぷりつかっているときと、ただ文字を追っかけているときがあることに気がつくことがあった。子供ながら、それは決定的に違うのだ、と思った記憶がある。

まだ言葉は浮かんでこない。自分の内部で何かしら変化が起きていることは確かなのだが。
読み終えるのには少々時間がかかりそうだ。

6月
11
ヒャクジツコウ

百日紅と書いてサルスベリと読む。

サルスベリ(百日紅=ヒャクジツコウ、Lagerstroemia indica) ミソハギ科の落葉中高木。 Wikipediaより

散れば咲き 散れば咲して 百日紅 とは、江戸の女流歌人、加賀の千代女の句です。
 -中略-
 果実がたわわに成る、とは言いますが、この木は花がたわわに咲き、花の重みで、枝が弓になりになってしまいます。
 わさわさと散り、もりもりと咲く、というお祭りが、秋までの百日間続きます。長い、長いお祭りです。
 百日紅のしたたかさに、江戸の浮世絵師がだぶり、表題はこんなふうにきまりました。
 -後略-

百日紅 杉浦日向子 1983年〜1987年 『漫画サンデー』(実業之日本社)に連載。
上記はその単行本にある、杉浦日向子氏自身の前書きの一部を転載させていただいた。

百日紅は葛飾北斎とその娘お栄の物語。
杉浦日向子氏は、かつてNHKの「お江戸でござる」で江戸文化を解説していた方。本業は漫画家なんですね。

ちょうどいまアニメ映画が封切り中だ。百日紅〜Miss HOKUSAI〜 この辺りでは名演小劇場でやっている。まだ観てないが。

読んだのは、実業之日本社 マンサンコミックスから出ているワイド版単行コミック、百日紅(一)(二)(三)。(なかなか古本屋チェーンにはならんでない。ある時、たまたま見つけた。)

なんだか妙に心に残る作品。さわやかでしたたかであたたかく、そしてつよいひとたち。
こんな時代に生きていたら、それはそれで楽しかったのだろう、と少々うらやましくなる。
もう一つ。この百日紅読んで、春画の見方が変わった。良い意味で。

調べてみるとこの百日紅、名だたる漫画家はこぞって大いに影響を受けているらしい。内容なのか技法なのか私にはよくわからないが、ただものでは無いということは感じる。短いエピソードが自然に入ってきてずっと残像が消えない。

6月
02
鯨のソング

海獣の子供   五十嵐大介 / 小学館 IKKI COMIX より

ジム
 「何が違ってしまったのか…」
アングラード
 「ねえ、ジム。僕とあなたとの違いがわかる?」
ジム
 「え…」
アングラード
 「 ”言語”なんだ。
  僕はごらんの通りおしゃべりだけど、言語のない世界を持っている。
  世界を受け止める事認識する事を、言語に因らずにしているんだ。
  あのころと同じように…」
ジム
 「…」
アングラード
 「言語は性能の悪い受像器みたいなもので、
  世界の姿を粗すぎたりゆがめたりボヤかして見えにくくしてしまう。
  ”言語で考える”って事は決められた型に無理に押し込めて、
  はみ出した部分は捨ててしまうということなんだ。
  鯨のうたや鳥の囀りアザラシの泳ぐ姿のほうが、
  ずっと豊かに、世界を表現している。
  きっと昔は人類も同じだったはずだよ。」

「海獣の子供」は空と海と琉花のお話。

圧倒される。
特に5巻。ほとんどセリフなしで「本番」時の描写が何ページも続く場面での凄まじい緊張感。
途中で目がクラクラし、ページをめくる手が震えてきた。
まさに、上述したアングラードの言葉そのものだ。

読み終わってずいぶんな衝撃を受けている。

5月
18
再発見

この数ヶ月で手に入れた吉本隆明の本。
すべて例の古本屋チェーン巡りで手に入れた。

ほんとうの考え・うその考え  賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって  春秋社
フランシス子へ   講談社
吉本隆明「食」を語る  聞き手 宇田川悟  朝日新聞社
共同幻想論  角川ソフィア文庫
真贋  講談社文庫
日本近代文学の名作  新潮文庫
夜と女と毛沢東  光文社文庫
僕ならこう考える 心を癒す5つのヒント  青春文庫
13歳は二度あるか 「現代を生きる自分」を考える  大和書房
カール・マルクス  光文社文庫
詩の力  新潮文庫
悪人正機  聞き手 糸井重里  新潮文庫
音楽機械論 吉本隆明+坂本龍一  ちくま学芸文庫
「すべてを引き受ける」という思想 吉本隆明 茂木健一郎  光文社
ひきこもれ  ひとりの時間をもつということ  だいわ文庫
思想とは何か 吉本隆明 笠原芳光  春秋社
吉本隆明の声と言葉。  HOBONICHI BOOKS
(吉本隆明が語る戦後55年 1 60年安保闘争と『試行』創刊前後 三交社)

それ以外にも 吉本隆明の183講演 – ほぼ日刊イトイ新聞で手に入る講演集が全てipodに収まっている。

だいぶ集めたな。
まだ読んでいないのもあるけれど、大まかな感じは掴めてきた。
晩年のは、だいたい対談を書き起こして本にしてる。
それぞれの本で様々なテーマが繰り出されているが、そのどれもが結局はいくつかの大切なテーマに収斂していく。
しかし、その大切なテーマ達を初めて世に出していった頃の、一番読みたい本がまだ見つからない。

密林でポチれば次の日にでもすぐ来るのだろうが、ここは別の理由もあって古本屋巡りにこだわっている。古本屋巡りは実は楽しいのだ。様々な物や事を発見できるからね。

きっと「表現」ということについて(いや、もしかしたら吉本のすべて)の根っこがその本にあるのだろう。
手に入れた本を読んでいくと、必ずそこに行き着かなくてはならない、と強く思うのだ。
凄まじいパワーを感じる講演記録 芸術言語論――沈黙から芸術まで を聞くとその思いはさらに強まる。
「言語にとって美とは何か」だ。 (「心的現象論序説」も同じかもしれない。)

吉本隆明に出会うことになった最初は「努力する人間になってはいけない(芦田宏直 ロゼッタスト−ン)」という本なのだが、この期に及んでようやくその後段にある〈追悼・吉本隆明〉をきちんと読めた気がする。

「自作品のオリジナリティっていったい何なんだ?」とか、「音聞くとお前の作品て判るのはなぜ?」とか、「個性とは意図するべき物なのか?」とか、等々夜を徹して語り明かす事が常だった学生の頃から未だに決着がついていない「表現」や「表現行為」の意味が、もしかしたら少し明るみに出るかもしれない、と大いに期待する。

そんなこともあってか、最近、純粋に自分がやりたい(やりたかった)音楽を(再)発見してるような感覚がある。
世間の評価とか経済的価値とかからは全く無縁な感覚。不思議だ。

最後に。
本日読んだ「ほんとうの考え・うその考え」の一部分から引用

 ヴェイユが工場体験で得たことで、何が一番重要だったかというと、
 〜中略〜
 もう一つは、手紙の中で「人間は疲れっぱなしで、追いつめられて、ぎゅうぎゅうに抑圧されると、かならず反抗心をもつものだと思ってきたが、そうじゃないんだということがはじめてわかった。つまりかんがえもしなかった一種の奴隷の従順さというものがじぶんのなかに芽生えてくるのがわかった」と言っているところです。これはとても重要な体験だとおもいます。これも手紙で「レーニンとかトロツキーとかは偉そうにしているが、あの人たちは工場の中に入ってみたこともじぶんで働いたこともないのだ。ああいう人たちが労働者の解放といっても、不吉なばか話にすぎない」と書いています。
 ようするに人間の心のメカニズムの複雑さを実感したことになります。人間はぎゅうぎゅうに追いつめられたら、かならず反発すると思っていたがそうじゃなかった。反発するにきまっていると思っているやつはぎゅうぎゅうに追いつめられた体験がない人たちで、実際はぎゅうぎゅうに追いつめられても反抗心をもつどころか、素直にそれをこなしている。そしてこの人たちがなぜおとなしくしているのか、なぜ反抗しないのか、その理由がすこしわかったという意味のことを言っています。これはとても重要な体験だったと思います。

4月
12
本ではなく

声。

いつもの古書店巡りで見つけた。講演収録の一部を並べたCD&BOOK。
講演のCDが入っている。膨大な講演記録音源があるらしいのだがそのほんの僅かな一部だけを少しずつ「立ち聞きする74分」。

そうか、講演か。
と思ってWEBをさまよってみると、ちゃんと有るんだ。ほぼ日刊イトイ新聞の中。
吉本隆明の183講演

FBでシェアしようかと思ったけどやっぱり止めてここにだけ書いておく。なんだかもったいない気がしたので。

早速データ取り込んでipodの中身になった。
 

そうそう、手に入れたCD&BOOKに載っていた一文。

言葉のいちばんの幹は沈黙です。
言葉となって出たものは幹についている葉のようなもので、いいも悪いもその人とは関係ありません。

きっとこれは〈自己表出〉ということなのではないか、と思ったりするのだが、まだそこにきちんと行き当たっていないので…

うわぁ、キラキラの宝物がわんさか出てくる。

4月
05
ツンドク

出かけたついでにあちこちの古本屋チェーン店へ足繁く通う。
欲しい本はなかなか見つからないのだが、それでも少しずつ見つけていくうちに、だいぶ貯まってきた。

読んでいるのかといえば、なかなかそうもいかない。次いつその本に出逢えるか判らないから一つ読んでから次を買う、ということができず、見つけたら即買うはめになるので読むのが追いつかない。

結果机の上に山積みである。少し触るだけで倒れそうな山。
速読ってのができたら便利だろうな、と思うが、それでは自分の理解がついて行けないのではないか、とも思う。

そもそも、私の本の読み方がもしかしたら普通ではないのかも知れない(書籍のレビューを書いていらっしゃる方々のような読み方をしていないのかも知れない)、と思い始めていてその辺りのこと(文字を読んで理解する、ということがどういうことなのか、読むということはどんな状態なのか…のようなことなど)も検証しつつで余計時間がかかるから、目で文字を追うインプットだけが早くなっても演算が追いつかないように思うんだなぁ。

本を開く時間をもう少し増やせたら良いのだが。

2月
28
引き続き

真贋 吉本隆明 (講談社文庫)
読んだ。

やはりとても興奮した。
しっかり繋がっているのだ(影響を強く受けているのだ)ということが判った。
比較的平易な言葉が並んでいるのだけれど、そこからちらちらと見えてくるのは恐ろしく深く広い。

きちんと理解するためには何度も何度も読み返さないとダメだな、とも思った。(もちろん、これだけを読んでいてもダメで背景にあるもっと多くを知らなければ、ということも強く思ったが。)

その直後、本屋でぶらぶらしていたら「本は7回読む」みたいなタイトルが目に付いた。中身は全く読んでいないから意味がないといえばそうなのだけれど、自分の中で《同じ本を何度も読むべきだ》というセンテンスが反芻された。

 
急に思い立って 猿の惑星 1968年 を見た。続いて 続 猿の惑星 1970年 も見た。
以前に見た記憶が微かにあるにしても、内容はほとんど覚えていなかった。
しかし、そこに出てくるいくつかのキーワードが、全然別のところで最近気になっていた物と全く同じだった。
「ん? あ、これってこの前のあれと同じだ!」のように。
 

これら以外でも、何故だか思いもよらないところ同士で単語(言葉)の一致が度重なっている。単なる偶然だとは思うけれど。

アメリカのTVドラマシリーズで TOUCH というのがある。一見何の意味もなさそうな数字の羅列が実は大きく世界を動かす重要な数列になっていて、それを解き明かせる子供達を巡るストーリー展開なのだが、何だかそれを彷彿とさせるほど。

もっとアンテナの感度を敏感にしておきたいと強く思う。そこから起想される(今はまだ脈絡もない)さまざまな事柄が今の自分にはとても大切に思われるから、こぼさずに拾いたい。

2月
15
読む

最近ポツポツとでも本を読むようにしている。

元々本を読むことは嫌いではない。いやむしろ大好きだ。
それなのに、あまり読まない事が続いた。読んでいないばかりではなく、それに気が付いていないふりをし続けていた。

気になっていることをそのままにしないで、少しでも何か考えなければ、と思い、まずはとにかく読む、と相成ったわけ。

たくさん読んだわけでもないのだが、でも、なぜだか、読んだ本のそれぞれから必ず行き着いてしまう人が一人いることに気が付いた。
そして、その人のことを知らないまま読む本を広げていくことはマズイのではないか、と思い至ったのだが、敷居が高いイメージがあって、どこから手を付けたものか、と、しばらく放置されたまま、しかし乱読は続いていた。

そんな折、先日たまたま行った図書館の開架で対談集を見つけ、これなら始めの一冊として良さそうだ、と借りてきた。しかも運良く図書館は蔵書整理の都合でしばらく閉館になり4週間借りられる。時間がかかったり何度も読む必要があったりなのではないかと億劫になっている身にとって好都合だ。(この手の本はなかなかbookoffで見つからないので…。)

というわけで
「すべてを引き受けるという」という思想 吉本隆明(光文社)
を読んだ。
今まで出来るだけ(無意識に)そぉっとしておいた頭の中一部分をぐるぐるかき回されている感じ。
「甘いんだよ!」「もっと良く考えろよ!」「おまえはそれだからダメなんだよ!」等々。
とはいっても全くイヤな感じではない。思考だけでなく様々な感覚や感触を否応なく刺激され、むしろ叱咤激励されている感じと言っても良いと思う。そして、机の上には既に次の本が置いてある。(きっと無知の手当たり次第、なんだろうけれど読まなければ先に進まないし。)

(良くも悪くも)密閉された中で時間をかけほんの少しずつ発酵してきたものが、ここに来て外気にふれ、変化の速度が劇的に加速している感触があり、その変化を(全く根拠はないのだが)受け入れたい気持があるのは紛れもない。

10月
18
楽しさ

「楽しければいいじゃん」と聞くと「うーん。それは少し違うんだよなぁ。」と言ってしまうことがある。それは「その瞬間楽しくさえあれば他は何でも良いんだ」という意味にとれる時だな。
逆に、「楽しさを求めるなんて甘い甘い!」な雰囲気を感じるときもあるが、やはり「うーん。それは少し違うんだよなぁ。」と言ってしまうことがある。「では、何のためにやってるの?そんな苦しいこと。」って思っちゃう。

だから、「えっ?じゃあどっちなのさ?」と思われることは多いだろうな。
そして、それを簡単な言葉で説明できず、なかなか難しいことだとずっと感じていた。

技術を「楽しさ」だけで論じるつもりはない。
〜中略〜
しかし、それでもやはり根底にあるのは、楽しさなのである。これを感じない人は技術者にはなれない、と僕は考えている。どんなに腕が良くても、である。それは、この得体の知れない楽しさだけが、技術というものへ向かう姿勢を長時間持続させるからだ。

創るセンス 工作の思考 / 森 博嗣 著 / 集英社新書 より

 # 森 博嗣という人は以前ここで書いたスカイ・クロラの作者。名古屋大学工学部の助教授だった方で、小説だけでなくここで紹介するような新書も複数ある。

「楽しさ」と「厳しさ」の同居を良く言い表しているな、と感じたので、覚え書き。
タマゴが先かニワトリが先かの議論に似ているけれど、私はほんの少しだけ「楽しさ」の方が先かなと思うわけで、それをうまく言い当ててる。

もう一つ同じ本から。

優れた技術者とは、知識が豊富なのではなく、ものの道理を知っている人のことだ。どうも、現代は本当に懇切丁寧なマニュアル社会になった。言葉が多すぎる(情報過多だ)から、言葉に埋もれてしまうのだと思う。

ふむふむ。

8月
15
一息

コンクールラッシュが終わってしばらく日にちが経つ。
ようやく一息ついて、色々ざわついていたものが落ち着いてきた。
棒を振ったバンド3団体。
レッスンに行ったバンドは…えっと、幾つだっけ?
審査員も。
コンクール日程が年々早くなっていて、夏休みにじっくりとレッスン、というわけにはいかず、どの団体にもスケジュール調整でご迷惑をお掛けした。申し訳ない。
それでも、それぞれのバンドは少しでも良い音楽にするために粘り強く練習に励み、それぞれきちんと成果が出たと思う。頂いた賞の色に一喜一憂するのではなく自分達がやってきたことに自信を持ってさらに前に進んで欲しいと思う。

さて私自身、今年は妙な絶望感はなく、むしろ沢山の発見があってとっても有意義だった。
なんと言っても、自分の方向性がかなり明確に見えてきたことは重要だ。
今までずっと納得できなかったことの理由が判ってきたようなのだ。

例えば。
なぜコンクールを嫌いなのか。
バンド界での「サウンド」至上主義に抵抗したくなるのはなぜなのか。
皆が「うまい!」という団体の演奏を聴いても、必ずしも「素晴らしい!」と思わないことがあるのはなぜか。
レッスンをしていて、どうしても拘ってしまうことがある(しかも、それはコンクールでは不利益なことが多い!)のはなぜか。

最近読み漁っている類の本の中に、

「学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない」

(※ グライダーは自力では飛びあがれない。牽引してもらってようやく空に飛び出す。一方、飛行機にはエンジンが付いていて自発的にいつでも空に飛び出すことができる。)
さらに、

「しかし、現実にはグライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるでなし、という”優秀な”人間がたくさんいることもたしかで、しかもそういう人も”翔べる”という評価を受けているのである」

思考の整理学 外山滋比古 / ちくま文庫

をみつけたりして「あ、そういうことか」と気が付いたりしているのである。
私はバンドのメンバーに対し常に飛行機人間を望んでいる!

思い起こせば、ずっと昔からそのようなことを口走り、いつもそれを追いかけてきた。
今さら何を再確認しているのだ、と思うが、その再確認が今の私にとってとても重要であることには間違いがない。

ようやくとっかかりが見えてきたようだ。