1月
30
最近

毎回の合奏が練習にならない。

大いに反省すべきであると思いつつも、どうしても、何とかして、ほんの少しでも良いから、伝わって欲しい、と思ってしまい、しゃべりすぎる。

なんでだろう、と自分でも思うよ。
何をそんなにかたくなになるんだ、と思うよ。
それが伝わったからって、ただの自己満足じゃねぇのか、と思うよ。

とにかく音出して練習せねばいかんのに!
時間がもったいないのに!

そろそろ合奏で何とか曲を形にする、という図式を壊さなければならないだろう。
個人練習やパート練習が上がっていなかったら、何も出来ないまま、すさまじい本番になってしまうことを体験せねばなるまい。そろそろ自分が何もしなかったら顔から火が出るほど恥ずかしい思いをする、ということを知るべきだ。
とは言っても、実は私自身、その覚悟が出来ないでいるのだ。
T邦を去るときに捨てたはずなんだけど、まだどこかに見栄とか要らぬ誇りとかがあって、たまに顔をのぞかせる。まさに今がそうだ。
私が棒を振っているのにそれなりの演奏が出来ないバンドが許せない。
それは、同じレベルまで目線を下げ泥まみれになってみんなと格闘する勇気をどこかにおいてきてしまったからかも知れない。
だからスタッフに甘え、3年生に甘え、来年度の新入生に甘え、いろんな場面で様々甘えているのが自分でも良く判る。

今日、たまたま第一回定期演奏会のDVDをちらっと見た。
一見「お、そこそこ人数いるじゃん!」「そんなにすさまじい音していないぞ!?」  
だけどよく見るとトラだらけのステージ。私の知らない人たちがいっぱいステージにのっている。(自分も棒を振ったのに!全然見知らぬ人たち。)
なんだか痛くてすぐ見るの止めたが、今も胸にとげが刺さったままだ。
その演奏が「痛かった」のではない。そのステージに音楽ではなく人の業を垣間見てしまったのだ。そしてその業が今の私を直撃したのだ。

自分はいさぎよさを忘れている。これじゃダメだ、と直感した。
人数が少ないから、技術が未熟だから、編成が揃わないから、何とかそれを誤魔化して形にしよう、と思うのはよそう。
カバーして誤魔化してもTSWの音楽レベルは上がらない。後々自分が恥ずかしいだけだ。

正直にきちんと出来ることを少しでも増やそう。そのために時間を費やそう。エネルギーを使おう。
具体的にやるべき事を伝えよう。みんなに説明しよう。手始めに「今後どう打開していけばよいか」部長に少し話をした。

TSWのみんな、申し訳ない。
いま、なかなか上手く事が運んでいかないのは他でもない私の努力が足らないのだ。そう肝に銘じる。

1月
29
一歩進んで二歩戻る

では、前に進まない。
それは今のTSWの現状だな。

せめて三歩進んで二歩戻る、になりたいなぁ。

掃除を見てても、いろんな係の作業を見てても、もちろん練習を見ていても、何を見ていても思うことは全く同じ。
周りが見えない。
状況が読めない。
全体が見えない。
今やっている事と最終的に目指すことが結びついていない。

さらに…。

行動力がない。
仮に気が付いても、それをやろうとしない。
そのそぶりすら見えない。
あとから「やれば良かった」「しなければダメだった」、というような反省は微かに聞こえることもあるが…。

この行動を規制する要因はいったい何だろう。
私は、いつもそのことで頭がいっぱいだ。常に考えている。
何とか改善することは出来るんだろうか?
それとも無理なんだろうか。
覚悟があったら何とかなるのかな。(もしそうだとしたら、どんな覚悟で、どの程度の覚悟かなぁ。)

他校の吹奏楽部顧問の先生は案外無駄な努力をせずに、一つの一発芸で何とかするんだろうな。
でも私には出来ない。音楽をするための前提なしに音並べても無意味だからねぇ。

1月
28
おぉ!

本日は明日の入試準備で比較的早く帰路につき、まだ暗くならないうちに豊川ICを通過できそうだ。
「帰宅は6時前だぞ!」と思ってランプをぐるぐる回っていた。
豊川ICはETCゲート直前で左から他車線が合流し、ゲートは右から通行券専用、ETC専用、そして一番左に通行券とETCの兼用、と3つのレーンがある。

この交差は少し危ないなぁといつも思いながら、だいたい真ん中のETC専用レーンを通ることにしている。
今日も電光掲示板の渋滞情報などに目をやりながら、いつものようにゲートを目指していたら、左方からかなりのスピードで軽自動車が進入してきた。「おお、あぶねぇなぁ、気を付けろ!」と思いながらも、私を追い抜かし、一番左の進入路を取ったので「ま、ぶつかりはしないからいっか」とやり過ごそうとした。
その軽がゲートを通過するのは私の数秒先になったのだが、私の視界に進入レーンにある表示が赤文字で「閉鎖」に変わりつつあるのが見えた。
「あーあ、ETCカード未挿入でゲート閉鎖だよ、あ〜あ! 後ろに付かなくて良かった」
実際ゲートは閉まったままで、
「このスピードだったらゲート前では止まれずに突破後停車だな」
「でもびっくりしてふらっと前に出られちゃいやだしな」
と警戒したのだが…。
おお、なんとその軽は全くブレーキ踏まずにそのままのスピードでゲート突破、下り線に流入してる。
ちらっとバックミラーで見たところバーは折られていなかったので左右のバーの隙間ぎりぎりで抜けたのだと思われる。

話には聞いていたけれど、今日初めて実際に目撃した。軽自動車のETCゲート突破。
毎日高速に乗ってゲート通っていて今日が初めて。
通過失敗後すまなそうに脇に停める車はしょっちゅう見るけれど。正面突破で走り続けるのは初めて見た。いるんだね。そんな奴。おおいにびっくりしたよ。

ふと、「出るときはどうするんだろう?」と疑問がわいた。やっぱり同じようにゲート突破だろうけれど。その瞬間も見てみたいという衝動に駆られた。
行動あるのみ。追跡開始。数台前にいそうだがトラックで見えない。しばらく走ってトラックをやり過ごしその軽自動車の直後に付いた。
ナンバーを覚えようと思ったけれど薄暮なのでナンバーが見え辛い。
そうだ、もう少し暗くなってから写真に撮ろう。
もう少し走りなんとか見えるようになってきたので、携帯を構えた。撮るのがなかなか難しく、手間取っているうちに、どうもこちらの行動に気が付いたらしい。いきなり加速しだした。
振り切られた。私がスピード違反で捕まってもおもしろくないので深追いはやめたのだ。

うーん。世の中にはいろんな奴がいる。あの軽自動車はいつもやっているんだろうか。それでいつまでも大丈夫と思っているのだろうか。もしそうだとしたらお幸せな人だな。すぐ破綻をきたして困るのは自分だろうに。

写真はうまく撮れなかったけれどナンバーはだいたい覚えている。
その情報が役に立つときが来るのかな。

1月
27
本番

長久手吹奏楽フェスティバルの本番だった。
200名を超える合同バンドで3曲演奏した。

なぜか本番のパワーはすごかった。練習でどうしても上手くいかなかったところもなぜかうまくいった。本番のスイッチが入ったのかな。素晴らしい。
逆に「え、こんなところ!?」で、私は振り間違えた。情けなし。

これで4回目(4年目)だけれど、毎回短い練習でよく出来るよな、と思う。これは一回目の練習以後、それぞれの団体に帰って練習してきたたまものだろうと推測する。でなきゃうまくいかない。
皆さんの頑張りに感謝です。
演奏は楽しかったか?お客さんも楽しんでもらえたか?私がやる意味はちゃんとあったか?いろいろ検証すべきことはあるけれど、それぞれの立場でやって良かったと思える本番にはなったかな。
懐かしい人々にもあった。また少し人の輪が広がった。

TSWのメンバーも8名のった。宿泊ともなって大変だったかもだけど、それに値する成果はあったんじゃないかな?いろいろな物が見えてきたんじゃないかな?
舞台のお仕事ご苦労様でした。助かりました。

ただ残念だったのは今回1年生の参加が皆無だったこと。不参加の理由はいろいろあるだろうけれど、宝物を取り損なったね。また同じようなチャンスがあるとは限らない。その一回一回が大切で唯一なチャンスだよ。いつもとは違う世界を見なければいつまで経っても田舎の井の中の蛙から脱却できない。次は是非取りこぼさないようにしたいものだ。

今回の事でいくつかおもしろい企画案が出てきた。実現できたらホントに楽しそうだ。乞うご期待!

1月
27
トラブル

本日スケジュールが1時間遅れた。そのあおりを食って合同練習が1時間少なくなった。
原因は、楽器運搬の業者が運びを「忘れた」らしい。学校でいつまで待っていても配車されなかったらしい。

そんなあり得ないような話が実際にあるんだね。プロの運送業者だよ。いい加減なのか、なめられているのか…。

こちらは少ない練習時間がさらに圧縮され大変困った。しかし、特に中学生は帰りが遅くなってしまうのはまずい。終了時間を伸ばすのはだいぶ無理があるだろう。
しかし、練習しなければまずい。出来ていないのだから。でもみんな困っているから、ここで少々譲らなきゃと思って、何とか時間通りに終わろうと努力した。実際には十数分延長しちゃったけどね。

あすの午前、最後の練習。何処まで詰めることが出来るか。

1月
26
仲間

暗くなるまで公園でブランコしたり鬼ごっこしたり、裏道でゴム跳びしたり、山の中を探検したり、田んぼでオタマジャクシ取ったり、のような遊びの経験が少ない今の生徒達。友達が集まってもただ黙々とゲームをやってるだけで、自分のこととか人と関わることとかをあまり知らずに大きくなっちゃった生徒達。
それでも人間は生きているとどうしても自分自身を見つめなければならない時が来たり、人とぶつからなければならない状況が起きたりする。普通の時は何の問題もなく過ごせるけれど、ひとたび何か障害や問題にぶち当たると何をどうして良いか判らなくなる。で、全てを放棄して今までのことを忘れようとしてしまう。ゲームの電源切ってリセットするように。
これを乗り越えるのは理屈じゃないんだよ。経験なんだよ。たくさんの経験をしてそこで考え悩み苦しみ解決していったことの積み重ねが多いか少ないか。いわば経験値の高さだ。

だから、いま経験しないでいつするの?って思う。
麻疹みたいな物かもね。小さいときは誰でも罹る。一度罹れば大丈夫。でも大きくなってからは症状が重くなる。後遺症が残ることもあるらしい。
高校3年間なんてあっという間だよ。症状が重くならないぎりぎりの3年間だと思うな。

日誌より
〜前略
みんな、つらい時は相談してね。弱音だって吐けばいいと思う。「もうだめ。できない」はよくないけど、「こうゆう事があってつらいんだけどどうしたらいいと思う?」って相談したらいいと思う。いやな思いをためて、ためて、ためて…取り返しがつかなくならないように。壁はこえてもこえても永遠にあると思う。つらい事もこれから先、数えきれないくらいある。壁にぶつかって痛くても助けてくれる友達がいるなら、何度でも壁に向かっていけるんじゃないかな。心も体もボロボロになったって、仲間がはげましてくれたなら、また、めいっぱいになるまで出来ないかな。
後略〜

日誌より
〜前略
仲間…。人にぜんぶをさらけだすって、むずかしいよね。
昔何かあったらよけいに。
でも、言わなきゃ伝わらないだよね。
同じ部活の仲間として、人が少ないからこそ、1人1人の気持ちも大切で…。うまく言葉にできないです…。
いろいろのりこえていく仲間だからこそ、辛さもわかると思う。
はらのさぐりあいとかじゃなくて…。全部。
素を出したい。素がよくわからんけれど(自分の)
後略〜

日誌より
〜前略
人の心を動かすって難しいね。相手の立場になって考えたりするうちに、自分の心は苦しくなるし…。いろいろと言葉をかけたり行動したりしても、成果は見えなくて。練習はがんばったらその分上手くなるのになぁ。
もっと素直に感情を出したいよ。本当は泣きたいし、怒りたいし、腹から笑いたい。感情を素直に出せたら、何か伝わる気がする。
後略〜

自分自身のこと、そして人との関わりのこと。
逃げたらそこでおしまい。その先はない。今関わっていることだけでなくあらゆることに影響していく。
でも踏ん張れば必ず次がある。可能性に満ちた次のステージが待っている。世界が開ける。

「あなたの大きさはこれくらいです。だからこれがめいっぱいで限界ですね。この辺でやめときましょう。」
と周りの者が言ってしまったらもう伸びない。言われたらその瞬間は解放されたように思うかも知れないけれど、それは全く逆で永遠にその呪縛から逃れられなくなってしまう。
もっと伸びて欲しいから、苦しむ姿を見てとても不憫に思うけれど心を鬼にして「逃げるな!負けるな!」と言い続ける。支え続ける。それが仲間だと思う。

1月
25
定着

今までに何度も言ったはず・話したはずの事なのに「全く初めて聞きました」という様子の時がよくある。
普通に考えると「一度言ったことはちゃんと覚えておけよ!」なのだが、もしかしたらそんなに単純ではないのではないかと思うようになってきた。問題があるのは「記憶力」(メモリー)ではなく、「入力」(インプット)の段階で既につまずいているのではないか、と思うようなことが何度もあったのだ。

こちらの意図や話の内容が正確に伝わっていない、すなわち把握できていない、理解しようとしない、もしくは、はなから聞く耳を持たないのではないかと、感じるようになってきたのだ。
だから、正確に理解したかどうか不安だから同じ話を何度も繰り返す。どうしても話がくどくなる。余計聞く耳を持たなくなる。理解しようとしなくなる。しかし繰り返すと少し改善する。だからまた同じ話を繰り返す。飽きてくる。聞きたくない。 …悪循環だ。

簡潔にわかりやすく伝える努力はしなければならない。それは伝える側として当然。
だけど、わかりやすい説明でなければ理解できなくなってしまうのは少しまずいのではないか?
少々わかりにくい説明でもそれを理解しようとする「受け手側の努力」もホントは大切なのではないか?

PISA調査において日本の子供達の読解力低下が問題になった頃、ある研究会でその対策キーワードに「不親切」をあげたことがある。他の人はさぞ訝しく思ったに違いない。
今は何をするにも親切丁寧で、失敗をさせない、苦労をさせないことに重点が置かれることが多い。私はいつもそのことについて「上手くいかない余地」を与えない、すなわち「失敗する」という出来れば避けたいけれどしかし実は貴重で大切な体験をする機会を奪っているように思っていたのだ。
周りが親切すぎるのは「自ら考える力」を奪っている最大の原因だと考え、その対策として、あえて「不親切」を提唱してみたのだ。
今もその考えは変わらない。さらに「不親切」のあとには「ひたすら待つ」べきだとも思っている。

今「読解力」問題は「生きる力」問題に発展している。
中央教育審議会答申(1998.6.30)で提示されている「生きる力」とは、
・自分で課題を見つけ ・自ら学び ・自ら考え ・主体的に判断し、行動し ・よりよく問題を解決する能力 ・自らを律しつつ ・他人と協調し ・他人を思いやる心や ・感動する心など ・豊かな人間性とたくましく生きるための ・健康や体力
を指している。

なんだ、いつもTSWのみんなに言っていることだよ。

何でもかんでも正解することが大切で、間違えることはとても恥ずかしい。だから出来るだけ間違えないようにしたい。しかも正解を出すことで苦労したくない。だから答えを教えてくれない指導は嫌われる。プロセスはどうでも良くて、正解であるかどうかでしか価値が見いだせないのだ。
ゲームにしたって、ゲームの攻略本ですぐ答えを与えられてしまえばつまらないものだと思うのだが…。それが続けば上記のような「生きる力」は付くはず無いのに、と思う。

私は音楽をやっているが指揮者(指揮の専門家)ではない。吹奏楽の合奏で指揮棒を振るが指揮棒のみで100%音楽を表現できるほど棒の技術を持ち合わせてはいない。
しかし、毎日顔をつきあわせているメンバーはボクのヘタクソな棒を理解してくれている。(合わせなきゃ怒られるしね。)
そこには解りにく棒ではあるけれど理解しようとする気持ちとか合わせようとする決意、癖なども読んで意図を再現したい、という前向きな気持ちがあるように思う。(あって欲しいと思う、が正解かも)

一方、素晴らしい棒の技術を持ち合わせている方々は、相手が初対面だろうと初心者だろうとなんだろうと、指揮棒の一振りで音や、音楽をコントロールすることが出来る。少ない練習で効果的にこちらの思った通りに音を出してもらわなければ仕事にならないので、さらに棒を振る技術に磨きがかかる。 当たり前だが、だからプロの指揮者と呼ばれる訳だ。
その場合、棒で明確な指示を貰えるので、演奏者は棒の通り音を出しさえすればいいので、あまりいろんなことに気を遣うことなく楽に演奏できる。
だが、とりあえず指示通りの破綻のない音を出しているだけで、そこに音楽の喜びとかアンサンブルの妙味とかがたくさんあるかどうか疑わしいかもしれないのだ。

とにかく指示通り何かをさせることと、こちらの意図や思いを相手に正確に伝達することは全く意味が違うと思う。
指示通り何かをさせるのことですら苦労するような人たちに、こちらの意図や思いをきちんと伝達し記憶に定着させ必要なときに引き出せるようにする、ということは、本当に至難の業に思えてくる。。

1月
23
信じる

音楽の正体を掴むのはなかなか難しい。
目に見えないし、手でつかめない。色も形もないし、匂いもない。いつまでもそこに有る事もないし、一度出てしまった音をなかった事にすることも出来ない。

にもかかわらず、「そこに何かがある事」を信じる必要がある。そして、信じる事によって少しずつ音楽が見えてくる。少し見えると、もっと信じたくなる。そうするとさらに奥深くが見えてくる。
そうやって音楽の正体がだんだん見えてくるのかな。

という事は、まずはとにかく信じなければ何も始まらないのではないか。
…さて、手始めに何を信じようか??

1月
22
準備

そろそろ定期演奏会の準備があわただしくなってきた。
チラシやチケットの手配も出来てきた。
パンフレットの原稿も、広告取りの手配も、生徒の実行委員を中心に動いている。
企画の中身も少しずつ形を見せ始めてきた。

やらなければいけないことは山のように有る。
やってもやっても追いつかない。
部員を総動員しても総勢20余名しかいないから、一人一人の負担は尋常ではない。
先日は3部用の中学生との合同バンド練習会があったが、そのための打楽器移動ですら全員で汗だくだ。
会場が満員になるようにチケットをさばくことも大変。
昨年より少しだけ準備が早くなったので、チラシの挟み込みも出来そうだがその手配や作業も決して楽ではない。
自主運営を旨としているから私がお膳立てすることはあまりない。ほとんどの事は生徒達が動かす。そのための実際の作業をするための段取りがさらに大変だ。
もちろんより良い演奏演技のために練習が熾烈を極めるのは当然の帰結だろう。
そこに費やすエネルギーや時間は膨大なものになる。
定期演奏会なんてどう考えても大変なことばかり。なんでこんなしんどい事やらなければならないのか、性懲りもなくまた今年もやってるよ、と自分でもあきれてくる。

だけど心の根っこではちゃんと知っているんだ。
あの定期演奏会の本番が限りなく純粋な喜びに満ちあふれていることを!
唯一無二の一生の宝になり得る奇跡の数時間であることを!
日常からかけ離れた私たちの理想の空間や時間であることを!
いくら準備が大変でも、いや大変だからこそ、その先にあるものがとてつもなく素晴らしいものになるんだな。

まだ知らない人には何が何でも知ってもらいたい。是非経験してもらいたい。
最後まであきらめずに…。
知らないままなのは罪だ、とさえ思う。

1月
20
フェスティバルバンド

200人規模バンドの練習があった。中学校2校、高校2校、大学一般各1団体の合同バンド。

本番は来週。練習は2回で、GP・本番。(リンクは不完全です。すいません。全体はPCでここからどうぞ)

細かいことをやるにはあまりにも時間がない。しかも人数が多すぎる。
では、何を断念し何を目指すのか?いつも悩ましい。

で、いつも結局縦横そろえることよりも、もっと別なことやっちゃう。
「喜び」とか「楽しみ」とか。
「揃わなくても良いから!」なんて言っちゃって。
アンサンブルの精度を上げるには大きな回り道だと思う。
誤解されると危険だよな、と思いながら。

そんなことは先刻承知、ただ「やらされて」「言われたとおりに」「無表情に」しか音が出てこないとムキになっちゃうんだな、どうしても。
「あなたは何をしたいの??」「何を感じてるの??」ってね。

今日もやっぱりそうなっちゃった。
今年こそはもう少し緻密にトレーニングやって精度あげようと思ったけどだめだった。我慢できなくて同じ事こだわっちゃった。
でもね、練習の一番初めとおしまいでは、みんなの目の輝きは違ったんじゃないかと思うのは気のせいかなぁ。最後はへとへとに疲れてはいたけれど、みんないい顔していたよ。
私は子供達のそういう顔が好きみたい。

(ただの自己弁護かなぁ。)