9月
30
50肩その後

始めってからまるっと一年経つ50肩はほとんど良くなってきた。
肩の痛みは随分前から無くなっている。
残すは、腕が痛い事、ある限られた条件の時に何故だか力が入らない事、肩の可動範囲が狭い事、ぐらいだな。

毎日、肩が突っ張って動かない方向へじわっと力をかけ、少しずつ可動範囲を広げてきた。(柔軟体操の要領だ。)
それによって痛みや筋力も少しずつ回復しているように思うが、まだ完全ではない。
例えば、「鉄棒にぶら下がる」ようなことは全く不可能。
そこまで肩が回らない(腕が上がらないといったほうがいいか…)し、なにしろ、その腕と肩でぶら下がった全体重を支えることは無理だ。

それなのに昨日、調子に乗って鴨居にぶら下がる格好をして肩に負荷をかけてみた。もう少しだぞ、の感触は得られた。
が、しかし。
首から肩にかけて痛みが走るようになり、寝ることすらままならない。寝返りも出来ない。
う〜。しまった。やりすぎた。
首も左右に振れない。
「寝違えた」が一番近い。
しばらく痛いぞ。

しょうがない。
やり過ぎが怖いからといって何もしなければ、可動範囲は狭いまま、動かないまま年老いていくことになるのだ。
ギリギリの所まで負荷をかけ、矯正していくしかない。

ついでに背筋を鍛えよう。
腰が曲がっていくの嫌だし。

9月
29
案山子

今朝まで大挙して雀たちが集っていた田んぼに、午後、案山子が立った。
赤銀のキラキラテープを捻って田んぼの内周を一周したものと、原チャリのヘルメットを被った急造の怪しい案山子一基。
案山子は真ん中ではなく端っこの方だが、銀テープは風が吹くと揺れて一応キラキラしてる。
万全の対策、というよりもとりあえずの暫定仕様な雰囲気だな。

さえずりは賑やかを通り越してうるさいくらいだったし、何かのはずみで一斉に飛び立つと、ザァーッと音がして何事が起きたのかと思うぐらいだった。早く手を打たないと、一粒も収穫できなくなっちゃうんではないかと、密かに心配してたんだ。

それなのに、やっぱり案山子の効果はすごいんだ。
今は一羽も雀は降りてきていない。ほんの数えるほどが、近くの家の屋根に留まって様子見しているだけだ。

そういえば、せろりも田んぼの案山子を見つけたらベランダから「ウー、ウォッホ、フフン、ウォッホ、」って警戒していたな。で、ヘルメットかぶってる人(特に原チャリ)見ると吠えるようになっちゃったんだ。

いつまで効果が保たれるか、が次なる興味。
知恵比べ。

9月
28
目指すべき

山の頂がほんの一瞬だけ見えた気がした。
長い時間かけてさまよったあげく諦めかけていた物が、ようやく見えたような気がしたのだ。

脳内の片隅に張り付いた頂きの記憶を頼りに、少しずつその全容のイメージを広げようと試みる。
輪郭さえ危ういが、それでもほんの一瞬のガスの切れ目からうっすら見え隠れする景色の切れ切れが、付いたり離れたりしながら「そこは絶景なのではないか」という期待を膨らませていく。
(一方で、同時に、その頂はやはり幻想なだけかもしれない、という恐れが膨らんでいくのも事実。)

しかしながら、情けないことに、その頂への道はおろか今いる袋小路から抜け出す方法すら全く見いだせないのだ。
ただただ、天を仰いで立ちすくむばかり。

頂が期待にしろ幻想にしろ、ここを抜け出す事がさしあたっての最大重要事項ではある。
次なる一歩をどう踏み出すのか。

9月
28
投入した

イシ貝は、二つとも中身が溶けてしまった。残念。
貝は難しいらしい。
水の中にいるプランクトンを食べるのに、水を綺麗にしようとして機械が一生懸命濾過してしまうから栄養失調になるみたい。
売っているのはずっとその状態だから初めから弱っていたのかも知れない。
近くの川か池で自然にいる貝を調達したほうが良さそうか。

でも、いつの間にかタイリクバラタナゴの産卵管は引っ込んじゃったしな。
このところ急激に水温が下がってきて調子悪いのかな。

9月
25
最近の新聞より

前略

痛ましい虐待の減らぬ中、しばらく前の東京の声覧で、児童福祉施設の職員のご苦労を読んだ。心をずたずたにされた子らを、心と体を使って受け止め、包み込む。相手の心を癒す代償に自分は傷ついていく。「厳しく切なく、気の遠くなるようなかかわりです」の訴えに心の中で頭を垂れた

後略
2010.9.24 朝日新聞-天声人語より

推測するしかないが、ご自分の命の力を切り分けて与えていくような、凄まじい献身的なご努力なのだろう。
それは、その仕事が次第にそういう人にしていくのだろうか?それとも、もともとそんな人だからこそ天職に就くのだろうか?

ご自分の家庭だってあるだろうに。
その暖かさだって無尽蔵ではあるまいに。

9月
23
第7回

吹奏楽フェスティバル in NAGAKUTE
平成23年1月30日(日)PM1:00〜 長久手町文化の家 森のホール
今年度も開催です。

愛地球博絡みで始まったイベント。
企画としてはとっても好評のようで回を重ねることが出来ています。
既に第8回についての話題が出ているので、まだまだ継続できそうです。

私個人としては、上手く行ったこと少し、失敗したことたくさん、様々有るけれど、1回目から色々な想いがあります。
参加者全乗りで200人を超える人数の無謀とも言える合奏。
そこだけ切り取れば単に人数が多くて音がデカイだけの演奏に見えるけれど、でも、これこそがこの企画のエッセンスだと思っています。
「スイソウガク」が単なる青春の思い出の1ページで終わるのではなく、アマチュアの裾野から世界の頂点まで音楽として一本貫き通る価値のある物だと信じ、その原点として、皆で演奏することがこの上なく暖かく幸せで素晴らしい物であることを実感して欲しいのです。
音楽を通じて人はひとりぽっちではないことを知って欲しいのです。

継続は力なり。
次なる力を生むためにも全力です。

9月
23
暑さ寒さも

彼岸まで。

昨晩、一瞬の雲の切れ目から月を見た。
今朝は早朝から雷雨。
たくさんの稲妻を見た。
午後になって雨の激しさは収まり、西よりの冷たい風が吹いてきた。
雀の大群が目の前の田んぼの稲に群がっている。
無秩序な(しかし小気味の良い)さえずりと共に米をついばむプツプツという音も聞こえる気がする。

季節は巡る。
1年経った。

最近眠りが浅い。
「したい」という高まりなのか、「しなければならない」という重圧なのか、「できるわけない」という諦めなのか。

9月
21
イシ貝を

投入することにした。
タイリクバラタナゴがだいぶ大きくなってきて、昨日産卵管が伸びている事を発見。雄も色が出てきている。

さっそく探しに例のホームセンターへ。
あるある。
ここの日淡はどんどん増えて、タナゴ類だけでもタイリクバラタナゴ、ニホンバラタナゴ、カゼトゲタナゴ、ヤリタナゴ、イチモンジタナゴ、カネヒラ、アブラボテ、と。さらにシマドジョウ、ヨシノボリ、モツゴ、オイカワ、コイ、ヤマトヌマエビ、ミナミヌマエビ、イシガキガイやイシガイ、もちろん、クロメダカにヒメダカ、など。(他にももっといたような…)
…カマツカがいたら欲しいな。

店のお兄ちゃんに「随分増えましたね」といったら「なんだか良く出るんですよ」と。
日淡水槽の前で店員とずっと話し込んでいる若い女性客も居た。
カラフルな熱帯魚とはちがってとっても地味な魚たちなんだけど、人気出てきたのかな。
 

帰宅し水槽に二つの貝を入れた途端、なんだなんだ、とタナゴたちはチェックしに来た。
貝はデリケートらしく、元気かどうか良く解らないのだけれど、少しだけ開いたり閉じたりしているようではある。
朝起きたら向きも変わって移動していた。半分底砂に潜ってた。
夜動くんだな。

産卵行動までいくのかどうかわからないけれど観察を続けよう。

9月
19
しばらくぶりの

風の便りが届く。
中身は何の変哲もない事務連絡。

…ではあるものの、先日のように、それはなにかのサインなのかも知れないと考えてみる。
根拠は特にない。いや、いくつかのごく小さなかけらをもとに頭の中のどこかでそう感じているのかも知れないけれど、もちろんまったくあやふや。
何往復かのやりとりのなかで、もう少し違う状況も知ることになり、やはり、なにか微弱な信号がでているような気はしたのだが。
世の中、そんな聞き取れないような微少な信号であふれかえっているのに、誰も聞き取れないとするとなかなか辛いし苦しいな。

自分のアンテナ感度は鈍っていないだろうか。

あ、そうだ。最近、中国製ラジオでともて高性能なものがでてきているらしい。あるWEBの紹介では「国内民放全局制覇をねらえる」との記述も見られる。値段も高性能な割にお安く。

もっとも、感度が良くても誤動作ばかりでは困ってしまうし、もし仮に何かの信号をきちんと捉えたとしても、それに対して何かできるかと自問すると、何にも出来ない事に気付き狼狽する。
だから無意識に感度を下げ信号をノイズに埋めて解らなくするのかも知れない。

…ま、考え過ぎの思い過ごしかな。

爽やかな秋の風に乗って届いた風の便りで様々思いを馳せてみた。

9月
16
いきなり

涼しくなった。
寒いくらいだ。
雨も良く降る。
先日までの天気はどこへ?
(またすぐ戻るかも…)
 

「微妙」という言葉がいつのまにか「びみょー」になってニュアンスが変わってきたからか、本来の意味の微妙さ加減が無くなってきたような。
力ずくで五感をひっぱたたかなければ反応できなくなっているような。

味も。
−激辛ブームは随分前か
匂いも。
−なんとかいう柔軟剤の匂いの傾向
感情も。
−すぐキレてすぐ萎える
自然も。
−酷暑とかゲリラ豪雨とか
…。

いや、順番が逆だな。
言葉が変わったからではなくて、人の感覚が変わったから言葉の使い方が変わったんだろう。

で、繊細な感覚が無くなった人間へ警鐘を伝えようとすると、自然はこれくらいの刺激が必要と思し召すのかもね。