11月
30
FBで

知人がリンクをシェアしていた動画。
私はここに動画を張り付けようと思う。

あるピアノコンクールでの講評ということだが、大いに共感するお話。一つ一つ「そう!そう!」と頷く。
私が自分なりに言葉を探して様々な場で音楽好きの若い世代に伝えようとしてきた、まさにそのものだと感じる。
言葉の選択のしかたによってこれほど説得力を持つことに感嘆し、少しでもそれに近づけるようにしなければと思う事しきりである。

だが、しかし。
このお話しをする状況というか背景というか、つまり、きっとその場でその内容を話す必要性があったのであろう、ということについて少しとまどうのだ。

くどいが、もちろん内容についてではない。内容はすべて共感できる事であるのは前述の通り。
権威のある「音楽コンクール」という場において、音楽として当然前提になっているはずであろう内容を殊更強調する事にとまどうのだ。

先日ここでこんな記事を書いたが、その思いと実はまったく同種の感想だ。

この2つの事例は何に警鐘を鳴らそうとしているのだろうか。
本当は、自分なりに見えていることなのだが、なかなか他へ伝えることの出来る「言葉」としては浮かび上がってこない。
もう少し心の中で熟成させ当を得た言葉が見つかったらここに書きたいと思う。

11月
27
伝えたいと

望むことがなかなか伝わっていないと感じ、思いの外ダメージが大きく後に引くことがある。

(何気ない会話の中で、ではなく)伝えるべき事・伝えたい事をきちんと整理し準備したにもかかわらず「ダメだ、これじゃ伝わるわけがない」と感じるとき。明確な拒否反応もしくは理解不能だという反応があるわけではないのだが、自分で勝手にそう感じてしまうとき。

何故そう感じてしまうのか?は自分でもよく判らない…。
もしかしたら、自分自身大切にしたいと思っているはずの事が「それほどでもないか?」と半信半疑になっているのか。
確かに判りづらいことだろうから、きちんと伝えるための努力が足りない、という自己反省からなのか。
単に自分の考えを押しつけているのかも知れないという自己嫌悪からなのか。

それでも続ける事がなにより大切だと思うから、苦しくても諦めないけれど、もう少し要領の良いやり方や上手な伝え方を見いださないと苦しいだけになってしまいそう。

…あ、自分が、ではなく「相手が」苦しいという意味ね。それが続くと聞く耳すら持ってもらえなくなる。

11月
01
今朝の

朝日新聞(2012年11月1日)に第60回全日本吹奏楽コンクールの1ページ特集があった。前日に名古屋国際会議場で行われた中学の部に関わる特集だ。
(記事の内容からこの辺りの地方記事ではなく全国版だと思ったがどうだろうか。)

さて、その記事の中央の囲みに「総評」という見出しで各演奏に対して評論が載っていた。その最後の一文。

 とある審査員が以前、こうこぼしたことがある。「一番感動的な演奏をしたのに、技術が弱くて銅賞になった学校がある。音楽の審査って矛盾だらけだよね」。名旋律に心震わせたり、美しいハーモニーの一翼を担ったり。技術を克服する快感以上に、音楽ならではのそうした幸福こそを、子供たちの感性に刻みたい。勝つためではなく、育てるための大会であり続けるためにも。

なぜ、コンクールの総評(各学校の演奏評価を並べたあと)の最後に字数を割いてこんな一文を載せたのか気になった。

吹奏楽コンクールに関して単純ではない何かを感じたからこそ、全国版の記事であるにもかかわらず(であるからこそ!?)紙面を割いたのではないかと邪推してしまうぞ。
「金賞受賞」という非日常の感動は「到達の評価」としてとても重要だが、それと等価もしくはそれ以上に(特に若い世代の人達にとって)重要なのは、素晴らしい音楽とともにある「日常の創出」だと思っている私は、とても近い匂いをこの一文に感じたので少々面食らったというのが正直なところ。

本日は高校の部だったと思う。
どの団体も気の遠くなるような練習を重ねてここに至っているだろうから、素晴らしい演奏だったことは間違いないだろうが、さらには音楽ならではの幸福を感性に刻んだのだろうか。